病気という名の先生

潰瘍性大腸炎になり健康に目覚め、医者に頼らずに生きていく事を決心

日本の朝食の歴史

一日三食のはじまり

 
今まで朝食はよくないということを書いてきましたが、今回は朝食の歴史を見てみましょう。
 
 
まずは狩猟・採集時代から見ていきましょう。 
 
 
その時代の人間たちに「一日何食食べる」という概念はありません。
 
 
お腹が減れば狩りをし、果実や木の実を摘み、食事をしたらすぐ寝てしまうというような生活を送っていたのではないかと思われます。
 
 
動物も同じですね。
 
 
ここで重要なことは、食事というものは本来空腹を感じてからとろうとすることなのではないかということです。
 
 
このことから、空腹になってから狩猟・採集を始めるのが自然の摂理であり、人間の生理にかなっているのです。
 
 
空腹の肉食動物はもっとも危険だと言われ、お腹に食べ物が入って無いときの方が頭がスッキリし、体が軽くなるのも、「食事を見つけるために肉体が最も生産的な状態」になるからです。
 
 
力士の人たちも、朝食を食べずに朝起きてから激しい稽古を始めますし、元十種競技の日本チャンピオン「百獣の王」武井壮さんはラジオで、
 
 
『俺は食事の前はレストランに行く時でも、野生の動物のように獲物を捕まえる気持ちで全力で走っていく』


と言っていました。


動物や狩猟時代の人間は、空腹は食事を得る活動をするための合図だったのです。


空腹は、胃が空になった時よりも、血中の糖分が減った時になりますが、この時に狩猟活動を開始すると、肝臓と筋肉に蓄積されていたエネルギー(グリコーゲン)を使うことになります。


これらのエネルギーが減少すると次は脂肪を分解して遊離脂肪酸という物質に変わって血液中に入り、これをまた新たなエネルギーとして利用します。


このように空腹時に活動することによって脂肪が使われていきます。


人間は血糖値の上昇によって満腹感が得られるため、前述の肝臓と筋肉からグリコーゲン(ブトウ糖)が補給されている状態で獲物を手に入れて食べた際は、早く少ない量の食事で満腹感が得られます(血糖値の上昇によって満腹感が得られるため)ので過食も抑えられます。


私たちも生活の中で食べる暇がないほど忙しくてやっと食事をしたときは意外とたくさん食べることができません。


これは体の中で上記のような活動が行われていたためです。


つまり朝食抜きの生活を始めてこのシステムが体の中で行われるようになると、朝食を抜いたところでお腹が空きすぎるということは無いのです。


縄文時代の人間や動物は空腹を感じたら筋肉と肝臓、脂肪に蓄えられたエネルギーをうまく使いながら狩りをし、そこで得た獲物を効率よく体の中で吸収するので肥満になることは無いのです。


この活動を少なくとも百万年単位で私たちは続けてきたので、長い人類の歴史の中ではまだまだ歴史の浅い、「起きてすぐに食事をする」という生理に反した今の食生活を続けていると、人間の体に不具合が起きるのです。


これが、今の人間が食べすぎだという理由です。


「狩猟時代と今の人間を比べてアホか」と思う人もいるかもしれませんが、私たちと彼らの体の仕組みは解剖学的にも生理学的にも変わらないといわれています。


人間の身体構造の進化は想像よりはるかに遅いのです。

日本での朝食の始まり

 
日本も昔江戸時代、家康の頃からそれ以前の戦国時代までは公家たちも一日二食でした。



後醍醐天皇(在位1319~1338)の勅作【日中行事】には、

『朝の御膳は、牛の刻(午前十一時から午後一時)なり、申の刻(午後四時頃)に夕の御膳まゐる』



と記されています。


他にも様々な文献に一日二食(正午に近い朝食から夕食)と記されています。


当時の人間たちは今の人間たちよりも身長は低いですが、私も何度か博物館で見たことがあり、実家に兜があるのですが、戦国時代の鎧兜を見るととても大きいですし、とても重たいです。


今の人間より食べていなかったのに、今の人間より体格がよく、はるかに力があったということでしょう。


ただ、今のように汚染された食事ではなく、新鮮な海の幸、山の幸や、白米ではなく玄米を食べていたので、食事の質は高かったと思います。


しかし日本ではじめて食事がとられるようになったのは、鎌倉時代(1185~1333)



曹洞宗の開祖・道元が中国から帰えってきたときから朝がゆをとり始めたのがはじまりといわれています。

 

それから徐々に支配階級や僧侶たちの間に広まっていったようです。


朝食は最初はごく一部の人たちのみの慣習だったようですね。


江戸時代でも家康の頃はまだ二食でしたので、同じ江戸時代の中で豊かになるにつれて食生活がかわっていきました。

 


江戸時代初期に入ってからしばらくして武士階級も三食の食事をとり始めるようになり、この時昼食は「間食」と呼ばれていましたが、食事内容的には普通の一食と変わらなかったようで、それから当時の朝食(正午)が朝にずれ、夕食(四時頃)が夜へずれて間食が、昼食となり、一日三食がはじまりました。


それが町人にも普及しはじめ、徳川綱吉の元禄時代(1688~1704)には都市部で一日三食が習慣化していたようです。

 
その頃には当時の呼び名で江戸患い(今でいう脚気が流行しました。


政治が安定し、町人の暮らしも豊かになり、江戸の人間たちは贅をつくし朝から白米ばかり食べるようになり、ビタミンB1の不足で脚気になっていました。


ちなみにその当時にビタミンB1を豊富に含む蕎麦が流行して、脚気を予防していた人たちもいます。


江戸患いというぐらいですから、豊かではなかった地方で流行しなかったようで、当時から食べ過ぎによる贅沢病が存在していたようですね。


江戸時代でも家康の頃はまだ二食でしたので、同じ江戸時代の中で豊かになるにつれて食生活がかわっていきました。


次回は世界の朝食の歴史を見ていきたいと思います。



あなたの健康を願っています。

 

 

引用元

朝食有害説―「一日二食」で健康に生きる

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